叩き上げの英語 198
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叩き上げの英語 198

 

十年一昔という言葉が生きているならば、この年昭和三十年は戦後日本の一区切りの年であった、国内生産も拡大し、中でも鉄鋼業は史上最高の生産額を記録した。

この年に発表された経済白書は「もはや戦後ではない」と経済成長を誇った。春日八郎の「お富さん」が大ヒットを飛ばした。

また暗いニュースもつづいた。瀬戸内海、宇野・高松間を結ぶ国鉄連絡般の紫雲丸(1,500トン)が貨車航送船の第三宇高丸(1,282トン)と衝突し、沈没するのに数分とかからなかった。

修学旅行中の生徒ら計一六八人が死亡した。五月十一日であった。それより二ケ月後の七月二十八日には、三重県津市文化村海岸で水泳訓練中の女子中学生三十六人の命が失なわれた。折からの土用波と速い潮流にのまれたのである。

十二月には佐久間ダムの貯水が始まった。ガイ.F・アトキンソン社のコンサルテイションを受けて三年の歳月と総工費三百二十億円が投じられた。このダムの完成は翌三十一年十月である。

航空自衛隊発足当時は、その大半の人員は陸上自衛隊からの転属者で占められていた。航空技術は戦後の空白が大きく影響し、技術的には諸外国にくらべ、大きく立ち遅れていた。

ゆえにその要員には技術系のものを数多く必要としたのである。陸海空の三軍を統合する保安庁は当時は江東区の越中島にあった。私が第八騎兵連隊当時勤務していたところである。

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久里浜のマグジェイ通信学校にいた私の同僚の坪田氏にはからずも街で出会った。偶然とはいいながら、その出会いは私にとって幸運をもたらした。