叩き上げの英語 195
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叩き上げの英語 195
2018年10月11日(木)5:00 AM
私が久里浜の米軍事顧問団を退職したのは、勤務一年後の昭和二十七年の七月であった。
前年の九月にサンフランシスコで調印された対日講和条約がこの年に発効した。日本が独立国として返り咲いた年である。
RTO時代の思い出に残る進駐軍専用列車もこの年に廃止され、RTOもその七年の歴史を閉じることになった。
私もまたこの顧問団の仕事を最後に米軍勤務にピリオッドを打つことになった。思えばKPを振り出しに戦後から七年間に渡る米軍勤務は、正に私の青春のぺージでもあった。
木の葉の、水の流れに身を浮かせただようままにその身をもてあそばれるように、私も敗戦という特異な時代を刻む歴史の中に身を投じ、たゆとうその流れの只中に身を任かせてきた。
青春とは、その若さの故に情熱を限りなく燃やし、その焔の中で考えることを学び、試行錯誤の中で苦しみを味わうことであるという。
私の十七歳から二十四歳に至るその日々は私なりの青春であり、英語学習に傾けた情熱は私の若い日の成長の糧であった。
吉田内閣の反共政策の強化と破防法(破壊活動防止法)制定をめぐり左右の激突がつづく中、メーデーはデモ隊約一万人と武装警官五千人が皇居前で衝突、死傷者五百名がでるという、独立後初の労働者の祭典は流血に染められた。
きれいどころと言われた芸者の歌がレコード化され、街には流行歌「こんな私じゃなかったに」、「芸者ワルツ」「上海がえりのリル」などが流れた。
白井義男選手が、ハワイのダド・マリノを敗って後楽園四万人のボクシングファンを熱狂させ、戦後初のフライ級世界選手権を獲得した。彼が二十八歳のときの偉業である。