叩き上げの英語 156
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叩き上げの英語 156

 

現在はその名も東京商船大学と変わっているが、戦後すぐの昭和二十年九月二十二日に米軍の接収に始まり、昭和二十五年七月の警察予備隊の発足と同時に同隊はそこで米軍との同居を強いられたが、四ヶ月後の十一月にはその施設の一部が返還された。

しかし日米共存には変わりがなく、不自由さはあいかわらず続いた。 昭和二十七年十一月二十一日には念願の全面返還が実現し、同時に防衛庁の前身である保安庁がその使用を開始し、商船大学が開校する昭和三十一年三月二十一日までそれが続くのである。  

この学校で思い出されるのは明治丸であろう。同船は明治七年十一月イギリスのグラスゴーの造船所で製造された1,027.6トンの帆船で、当時は三本マストであった。速度は十一・五ノットで当時としては高速を誇り、明治九年には朝鮮の江華島事件で使節を輸送している。  

終戦時には二本マストになり、それまでは航海することのない繋留練習船として同学校に接岸していた。 米軍の接収と同時に同船は米軍将兵の酒保(遊興施設)と化し、歴史的にも貴重な壁画の上にも心ない米軍の手で白ペンキが厚く塗りたくられてしまったという。  

同校が大学となった今、同船は陸に上げられ、去る昭和五十二年五月三十一日に重要文化財に指定された。 ここに移ってから私の憲兵司令部は部隊の編成上S−2と呼ばれるようになった。六本木からすれば大分遠くにはなったが、依然として三軒茶屋付近のパトロールはつづけられていた。